研修医時代
京都大学医学部形成外科・皮膚科には当時レーザーがありませんでした
私が京都大学形成外科に研修医として入局した頃には、まだ関西の大学病院でレーザー機器を装備して治療にあたっているところはなかったと思います。形成外科学教室、皮膚科学教室のいずれにおいても、理論や概念以上にレーザーについて深く学ぶことはできませんでした。
あざの治療は全切除かドライアイスを用いた冷凍凝固法や皮膚剥離が標準であり、医師の技量に治療結果が左右される難易度の高いものでした。
兵庫県立尼崎病院形成外科・皮膚科は当時阪神大物駅近くにありました
2年目の研修医として赴任した兵庫県立尼崎病院形成外科(現 兵庫県立尼崎総合医療センター)には、橘(現 寺島)先生のご尽力の下、形成外科にCO2レーザーが導入されており、主にほくろの蒸散などに使用していました。ここで初めてレーザーを実際の治療に使用する経験をしました。
また病院の手術室にはレーザーメスとして使えるYAGレーザー(連続発振)が設置されており、形成外科の手術に使うことはありませんでしたが、LLLT(低反応レベルレーザー治療)として低エネルギーによる焦点外照射を褥瘡の治癒促進を目的に繰り返し行なったりもしました。いずれも当時としては最新の治療機器であったと思います。
しかしその当時はまだ手術を勉強したいという意識が強く、レーザー治療を原理から本格的に学ぼうとは思っていませんでした。
冨士森形成外科時代
研修医生活を終え赴任した冨士森形成外科には、当時最新式のキャンデラ社製色素レーザー装置SPTL1(スポット径5ミリ)が設置されており、単純性血管腫やいちご状血管腫の赤ちゃんに全身麻酔をかけて毎週のように照射を行なっていました。まだレーザー治療の保険適応はなく当然自費での治療です。
当時東京や名古屋では同様のレーザー照射が1ショット(直径5ミリの円形のスポットひとつ)5千円程度で行われており、隙間なく照射するために少しずつ重ね合わせると、わずか1平方センチのあざの治療費が1回5万円くらいかかりました。大きいあざなら数百万円かかります。費用面から治療を諦める患者さんも多かった時代でした。冨士森形成外科のレーザー治療費は他の美容外科に比べて非常に 安かったため、九州や東海北陸、東北などからも患者さんが頻繁にきていました。
忘れられないエピソードの一つに、鹿児島から両親に伴われてきた赤あざのお子さんに、京都大学から派遣してもらった麻酔科医が全身麻酔をかけ、いざ照射しようとしたら1ショット目は出たものの2ショット目が出ず(突然の故障です)治療中止となってクリニック全員でご両親に平身低頭して謝ったことがありました。当時修理の技術者はアジアに3人しかおらず日本国内に常駐していないので(確かシンガポールから)飛行機で出張してくるのを待たねばならず、その日の治療はそのまま中止するしかなかったのです。
いちご状血管腫は当時の小児科ではwait and see(何もしないで見守る)が推奨されており、自然に消えるものもあるから急いで治療はすべきでないとされていました。治療するにしても大きく盛り上がってきた場合に限るというのです。しかし目立つ赤あざを数年放置するというのはご両親には耐え難い苦痛です。治らない場合もあり、みにくい痕が残ることもありました。
私たちは、いちご状血管腫は見つけ次第治療すべきだと日本で初めて主張し、日本形成外科学会の総会で症例を示して発表しました。当時の治療法は他のあざと同じくドライアイスを患部に押し付ける凍結療法が主流でしたが、色素レーザーによる治療は患者さんの負担も軽く治療結果も遜色ないことを示したのでした。
※ 時は移り、最近ではいちご状血管腫は小児科主導で内服薬で治療し、拡大するのを防止できるようになってきました。しかし入院治療が必要で無視できない副作用もあり、非常に小さなものや顔面以外の軽症例はむしろ治療されず経過観察されることもあるようです。小さな盛り上がりのない時期にレーザー治療すると短期間に完治させることができるので、まだレーザーの出番は十分にあると思います。
城北病院(現 北山武田病院)との関係
冨士森形成外科の関連病院である城北病院には冨士森形成外科を巣立った鈴木晴江先生が形成外科医長として勤務され、付属施設として関西初(というよりおそらくは日本初)のメディカルエステ(サロン)を立ち上げると共にレーザー治療にも力を入れていました。
関西で初めて刺青を除去できるQスイッチ式YAGレーザーを導入し、そのことが読売新聞で報道されると、警察病院からの問い合わせを含め関西一円から刺青除去の患者さんが集中し、東北や北海道から治療に来られる方もいて、私もよく見学がてらお手伝いにいかせていただきました。
当時医療用レーザーは非常に高価で、一つの施設に何台ものレーザーがあることはまれでした。その中で、当時の城北病院院長であった栗岡先生の英断もあり、城北病院には次々と最新式のレーザーが装備されていきました。
一人で赴任した各病院
国立療養所 千石荘病院
千石荘病院全景(1990年頃のもの)
岸和田市民病院他
千石荘病院で一人で形成外科と皮膚科を兼任して1年が過ぎ、大学人事の都合で岸和田市民病院形成外科も兼任することになると、勤務は多忙を極め手術に明け暮れる毎日となりました。どちらの病院にもレーザー設備はなかったため、基本的には私はレーザー治療から遠ざかることになりました。しかし勤務のない土曜日には、以下の和歌山スミヤ病院にレーザー治療担当医師として毎週1回通っていました。
和歌山スミヤ整形外科病院
岸和田・貝塚から近いということもあり、和歌山市のスミヤ整形外科病院に週1回土曜日にレーザー外来をしにいっていました。レーザーを病院に導入した城北病院の鈴木先生が多忙のため、その代わりということで出張を引き継いだのです。ここで使用していたレーザーは城北病院にあった機種と同じだったので使い方は慣れていました。
患者さんの多くは、タトゥーと扁平母斑(茶あざ)でした。レックリングハウゼン病の色素斑など治療の難しいものや背中の半面に及ぶ巨大母斑など再発しやすく照射条件の設定が難しい症例も多く、どのくらいの治療間隔でどうやって照射するか手探りの状況が続きました。
ドイツ留学時代 Marienhospital Stuttgart
こうして3年が経った頃、当時の西村京大教授からいただいたドイツ留学の話を受け、当時勤務していた3つの病院を一旦すべて退職し、自宅も引き払ってドイツ移住という形でドイツ留学がスタートしました。
シュトゥットガルト・マリア病院形成外科は規模が大きく、毎日5つの手術室をフルに使って一日20件ほどの手術を行っていました(年間約5000件)。大変勉強になりましたが、留学していた2年の間、レーザーを勉強する機会は全くありませんでした。
帰国して本格的にレーザーを学びなおす
大城クリニック・銀座四丁目大城クリニック
帰国後の勤務先は、大城クリニックに決まりました。院長の大城敏夫先生は日本で初めてレーザー治療を行った先生で、レーザー医学会・レーザー治療学会などを立ち上げ国際学会の会長も務めた日本のレーザー医療の先駆者ですから、ドイツでしばらくレーザー治療と離れていた私としては願ってもない就職先でした。
大城クリニックにお世話になった1年間は、レーザーを学ぶには最良の環境でした。ちょうど日本で始まったばかりのレーザー脱毛に携わり毎日脱毛レーザー(サイノシュアー社のLPIRレーザーが7台もありました)を操作しては様々な条件での治療法を実験しました。「医療レーザー脱毛」という用語とその使用法を確立したレーザー学会・レーザー治療学会合同の公開討論会にもスタッフ(肩書は事務局長)として参加させていただきました。
大城クリニックには、当時はあまり使われなくなっていた初期のルビーレーザーやアルゴンレーザーをはじめ、様々なレーザー機器が沢山あり、毎朝技術スタッフが出力調整するなどメンテナンスもきちんとされていたので、(機械の液晶画面に表示する数字を信用するのではなく、アクリルブロックやカーボンペーパーに実際に照射してフットプリントの歪みや直径、深達度などを毎日計測していましたし、出力の低下傾向をグラフ化してメンテナンス時期を予測するなど)非常に勉強になりました。QスイッチルビーレーザーやKTPレーザー、スキャンニング付きCO2レーザーなどを使用した色素性疾患の治療や、低出力レーザーによるアレルギー、痛みなどの治療も面白く、YAGレーザーによる鼻アレルギーの治療の学会発表などもさせていただきました。(当時はレーザー医学会にも入っていたのですが、開業して忙しくなり継続できずやめてしまいました。)
中でも一番勉強になったのが、毎週水曜日に朝7時から行われるレーザーの勉強会と、月1、2回行われる各部署の合同会議でした。
レーザー勉強会ではレーザー会社の技術者を招いての基礎講習や、レーザー医学会会長においでを願ってのレーザーにおける医療倫理の勉強、レーザーの教科書を作るため分担して英語文献を翻訳する抄読会などが行われ、毎週前日はその準備に追われましたが、緊張感もあり楽しいものでした。また会議ではクリニックの運営や広告宣伝などの勉強もできました。
入職と同時期に大城先生が美容専門クリニックとして新たに立ち上げた「銀座四丁目大城クリニック」に途中から移動して後半半年ほどは常駐し、大城先生の留守に先生の代わりに美容レーザー治療や脱毛治療にあたったり、見学を通じてさまざまな美容のテクニックも教えていただき、その経験はその後の私の美容医療の原点といっても良いくらいで、大変感謝しています。
※ ここで是非とも書いておかなければならないのは、大城先生の発案になる世界初とも言えるダウンタイムのない美容レーザー治療を間近に見せていただくとともに、実際に患者さんにも照射させていただくなど、他のドクターにも見せたことがないというノウハウを銀座4丁目クリニックで直接教えていただいたことです。冷風によるクーリングをしながらレーザーを照射して行くと患者さんの顔は見事に引き締まり、「7年若返ったねえ」とにこやかに言う大城院長と嬉しそうに鏡を見る患者さん。これが大江橋クリニックのレーザー治療の原点になったことは間違いありません。当時世界のどこにもないこの治療は1回150万円でした。発明者の大城先生に直接教えていただいたドクターは私の他に世界に何人いるでしょうか。
京都時代
京都桂病院、城北病院
翌年、大城クリニックを退職後京都桂病院に半年間勤務し(そこではレーザー治療は行いませんでした)、その後2000年4月より城北病院(現 北山武田病院)形成外科に勤務することになりました。冨士森形成外科時代に毎週手術に通うとともに鈴木先生のお手伝いでレーザー治療を行っていた病院です。
開業準備のため退職するまでの約6年間は、美容と一般形成外科を掛け持ちする形で診察、手術、レーザー治療、ケミカルピーリングなどの診療を行っていました。
レーザー分野では毎日のように血管性病変や色素性病変の治療と脱毛を行なっていました。ただし城北病院では脱毛は脱毛専用室で針脱毛もできる講習を受けた看護師たちが行うスタイルだったため、実際には一部のやや難しい症例を除いては自分で脱毛治療を行うことはあまりありませんでした。その時の隔靴掻痒の感が現在の「必ず自分で照射する」やり方につながっています。
また折に触れ入職される新しい医師たちにレーザーの照射法や練習法を指導する機会にも恵まれ、人に教えることで自分の知識をさらに深めることができました。
そこを退職する前年にスタッフの一人として入ってこられたのが、現在一緒に仕事をしている副院長の小川先生で、すでに東京の美容外科等でレーザー照射や美容治療の経験も豊富な先生がもたらした新たな視野により、現在の美肌レーザーにつながる多くの知識をブラッシュアップすることができました。一時は先生と二人で施設を京都大学系列のレーザー研修施設にしようとも頑張ったのですが、病院自体の運営方針が変わり美容にはあまり力を入れられなくなったため、新天地を求めて退職しました。
開業後のレーザー経験
約1年の準備期間を置いて、大江橋クリニックを開業することになった時には、自分自身と副院長となる小川先生との能力をフル活用して、できることはなんでもやろうと考えました。手術の分野でも今のように耳や瞼ばかりではなく全身を対象とし、脂肪吸引や鼻の形成、外傷や火傷なども引き受けるつもりでしたし、レーザーは資金の許す限り導入して様々な治療が行えるようにしようと思いました。
そうはいっても個人の開業でありどこからも資金援助を受けるつもりはなかったので、購入できる機器には限りがあります。銀行の融資限度もありレーザー機器購入のための予算は5千万円程度に抑えなければなりませんでした。その限られた予算の中で、曲がりなりにも美容外科ですと言えるためにはシミ・イボ・ホクロの治療は必須ですし、あざの治療や脱毛もできた方がいい、でも一番やりたいのはその頃私たちの頭の中で形を成しつつあった美肌レーザー治療です。
治療の選択肢を増やすため様々な会社から1台ずつ導入することも考えましたが、メンテナンス費用もバカにならないし欲しい機能がダブったり機器の使用感が異なったりして、単に機種を増やしてもダメだと思いました。またレーザー会社によって機械の精度に対する許容度が違い、製品ごとにに性能のばらつきのある会社もありました。そこでレーザーのページにも書いたように1〜2社に絞ってその会社のラインナップで治療を構成できるような導入方法を考え、結果的に現在のような機種構成になりました。
以下編集中。近日中に書き加える予定です。