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院長の経歴
〜 about Director of Oebashi Clinic 〜

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開業までの経歴について

院長:井上 (けんな)

開業医として患者さんに安心して受診していただくためには、自分が医師としてどのような経験をし、どんな考えを持っているのか知っていただく必要があると思い、自伝めいたことも含めて書いてみます。

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研修医時代

京都大学医学部形成外科・皮膚科

私が京都大学形成外科学教室に入局した年は、まだ関西のほとんどの大学に独立した形成外科学教室がなかった時代でもあり、各大学から集まった同期入局の研修医が10名(うち京大卒業は私を含め3名)と、前後の年と比べても研修医が非常に多い年でした。
形成外科の研修ができる病院がまだ少なかったため、入局した研修医はまず麻酔科、整形外科、耳鼻科、脳外科など別の診療科に数ヶ月研修に行って、幅広い知識を身につけることが奨励されていました。
私は9月から12月までの4ヶ月間を同じフロアにある皮膚科学教室に出向して皮膚科の研修をすることになりました。京大病院在籍1年間のうち4ヶ月だけ籍を置いた皮膚科ですが、結局それが今の私を作るきっかけになりました。
直接ご指導いただいた、後に美容皮膚科方面の権威となられる宮地良樹先生(京都大学名誉教授/2023年現在静岡県立総合病院リサーチサポートセンター長)は、当時まだ群馬大学教授に就任される前で病棟医長でしたが、常々一人の患者さんの診療もおろそかにするな、とおっしゃっておられました。なんだただの水虫だ、湿疹だと思って観察をおろそかにする、そんな診療姿勢が論文の題材になるかもしれない重要な知見を見逃すのだと教えていただきました。
もちろん形成外科の研修でも、音声外科の世界的権威・故一色信彦教授(当時)を始め、後に第3代京大教授となる鈴木茂彦先生、後の関西医大教授の楠本健司先生、手の外科で世界に知られた石川浩三先生(前大津赤十字病院病院長)、ベトナムでの医療奉仕活動で海外でも著名な平本道昭先生、口唇や顔面の繊細な手術で知られた澤田良樹先生(さわだクリニック)など関西の形成外科で知らぬもののいない錚錚たるメンバーの先生方の手術に助手として直接つかせていただいたことは、得難い経験となっています。
一色先生や澤田先生の出張手術にお供して、出先の病院で1対1でご指導いただく貴重な機会もいただきました。

京大病院にいた1年間では、最初に主治医となった全身熱傷の患者さんの全身管理と当時から京都大学で開発中だった人工真皮移植、研修医1日目に手術に入り16時間かけて腕の静脈と遊離広背筋皮弁を繋いで脚に移植するという経験をした血管の難病による下肢の難治性潰瘍(術者は石川先生)、一色先生執刀の唇顎口蓋裂の初回手術と成人唇裂の修正手術(Abbeフラップなど)、小耳症の肋軟骨移植、眼瞼下垂(先天性、老人性)、頭部瘢痕のエクスパンダーによる再建、耳たぶなどの耳介変形の再建、漏斗胸の胸骨翻転法による再建(新潟大学の星先生による方法)、多合指症の切り離しと再建、変形治癒鼻骨骨折の修復、シリコンブロック埋め込みによる甲状軟骨の形成と音声の改善手術、(以下は皮膚科)皮膚悪性腫瘍の化学療法、全身性紅皮症、尋常性白斑の吸引表皮移植、アトピーのストレス(父親との面会)による急性増悪などの症例が今でも記憶に残っています。

兵庫県立尼崎病院形成外科・皮膚科

その翌年は兵庫県立尼崎病院形成外科(現 兵庫県立尼崎総合医療センター)で、橘(現 寺島)先生の指導を仰ぎながら週3日間形成外科を、そして残りの半分は皮膚科部長の尾崎先生のもとで皮膚科をと、文字通り半々に研修することになりました。こうした研修は当時の体制(一つの科で専門医を取るまでストレート研修する)のもとではかなり特殊であったと思います。現在でも二つの診療科に同時に在籍することはあまりないでしょう。隣り合った診察室で、同じ患者さんを皮膚科の外来では皮膚科医として、形成外科の外来では形成外科医として治療したこともありました。
同じ疾患でも、皮膚科医としてはまず色々と検査してきちんとした診断をつけ、できる限り薬で治そうとしますし、形成外科医としては、ものが何であれとにかく悪い部分を切り取ってしまい、その傷痕をきれいに再建しようとします。その考え方の違いはとてもおもしろい経験でした。

県立尼崎病院では、1年弱の間に60例に及ぶ眼瞼下垂手術(当時としては非常に多かった)の経験の他、新生児の超早期唇裂手術、直径30センチにもなった臀部巨大悪性腫瘍の切除と両側大腿からの複合筋皮弁による再建、溶鉱炉の溶けた鉄を浴びた重症の熱傷などの重症例のほか、重瞼埋没法や隆鼻術後のトラブルの再建など美容手術の基礎、CO2レーザーでのほくろの蒸散、シリコンバッグや筋皮弁を用いた乳癌後の乳房再建、難治性褥瘡のLLLTレーザー治療、皮膚科では当初特殊な薬疹と誤診した非常に珍しいハンセン病の再発例、皮膚に症状がないのに強烈な痒みに苦しむ全身性搔痒症、併設の東洋医学研究所と一緒に行う漢方を併用したアトピー治療などが記憶にあります。
中でも毎週のように繰り返し経験した眼瞼下垂症手術は、初の学会発表のテーマにもなり、結果的に自分のライフワークの一つになりました。

冨士森形成外科時代

2年間の研修医生活を終えた私は、一色教授の指示で冨士森形成外科に2年間勤務することとなりました。冨士森先生はご存じの方も多いでしょう、京都大学皮膚科に籍を置きながらただ一人で形成外科を立ち上げ、関西に形成外科を根付かせ育て上げたばかりでなく、瘢痕・ケロイドの治療、やけどの植皮、義眼の方のまぶたの再建などでは並ぶもののない名医です。冨士森式フックピンセットやフィックストン(スポンジ)など形成外科治療には欠かせない必須アイテムの考案者でもあります。開業前大学で講師をされていた頃には冨士森先生の手術を受けるには3年待たなければならなかったほどです。大学を退職して開業され、毎日のように手術できる環境を整えられたため、先生の名声を慕って全国から患者が殺到していました。先生の全盛期とも言える時期にそこで働けたことは本当に幸せでした。現在の私の傷痕治療などの形成外科領域の基本的な考え方は、すべて冨士森先生のお教えによるものです。

毎週手術日の夜、朝から並列で(手術室に2台の手術台を並べ、同時並行的に二人ずつの手術をスタッフ全員で手分けして行うわけです)十数例に及ぶ嵐のような手術を終えて、みんなでビールを飲みながら症例検討会を行ない、プロジェクターで映した患者さんの写真に各人が思いつくまま切開線を書き入れると、なぜそれではきれいにならないかを教えていただく、かけがえのない楽しい時間を過ごしたことを忘れることができません。この傷の治し方を10通り考えてこい、などと言う宿題を出されたこともありました。なるほど、治療法は一つとは限らないし、状況によっては第一案が不可能になることもあり、常に次の手を考えておかなければならないわけです。詰将棋のように何手先まで読むか、思い通りの結果が出ない時にどうやって危機を切り抜けるか、毎日が緊張の連続でした。

時には自分の思いついた切開線の方がいいのではないかと具申すると、ではそれでやってみろと言われ、実際の手術では案に相違してメスで切った皮膚がうまく移動せず傷が塞がらないなどということもありました。困り果てていても先生はすぐには助けてくれません、お前がそう切ったのだから自分で考えろ、必死で考えろ、と先生は後ろで腕を組んで見ているだけです。冷や汗をかきながら何度も皮膚ペンで周辺の皮膚に線を描いては消し、ようやくお許しをいただいてその線通りに皮膚を切り足すと、皮弁が動いてぴたりと傷は塞がるのでした。

冨士森先生には本当にいろいろなことを教えていただきましたが、中でも記憶に残っているのは、顔面熱傷の際の皮弁による眉毛移植・頭髪移植、義眼床ポケットの植皮にシリコンプレートを用いる方法、眼瞼下垂の大腿筋膜による吊上げ、様々な有茎皮弁、フリーハンドデルマトームの使い方、出張手術で初めて見た患者さんに対してその場で思いついたという外腹斜筋フラップによる腹壁再建、母親の耳介軟骨を用いた同種移植による子供の下眼瞼再建、顔面血管腫のキルティング手術、ディレイフラップの切り離し、苺状血管腫の初期レーザー治療、全身麻酔で行なう太田母斑のドライアイス治療、当時まだご存命だった大阪医大・田島教授(当時)を招いて名人の技を直接教えていただいた鼻骨骨切り、等々。思い出はまだまだきりがありませんが、このくらいにします。

城北病院(現 北山武田病院)との関係

冨士森形成外科の入院手術は、当時城北病院で毎週行なわれていました。スタッフ全員で城北病院に出かけ、手術室に置かれた2台の手術台で、ここでも二人ずつの患者さんの手術を同時並行的にするのです。京都大学から麻酔科の先生を呼んで二人同時に全身麻酔をかけ、多い時は一日8例くらいの全身麻酔手術を行なっていました。人手が足りない時には淀川キリスト教病院など他の病院からも研修を兼ねてお手伝いの先生がこられていました。
城北病院には冨士森形成外科を巣立った鈴木晴江先生が形成外科医長として勤務され、院長先生の協力もえて形成外科、美容外科、関西初(というよりおそらくは日本初)の病院直営のメディカルエステを立ち上げて、関西の美容医療の先駆けとして頑張っておられました。

当時の城北病院では大阪の葛西先生とほぼ同時に関西で初めて刺青を除去できるQスイッチ式レーザーを導入したため、当時は警察病院からの問い合わせを含め関西一円から刺青除去の患者さんが集中し、私も見学がてらお手伝いにいかせていただきました。
当時医療用レーザーは非常に高価で、一つの施設に何台ものレーザーがあることはまれでした。その中で、県立尼崎病院を始め私が当時勤務した施設はすべて先進的なレーザー治療を行なっており、非常に幸運であったと思います。

一人で赴任した各病院

国立療養所 千石荘病院

千石荘病院全景(1990年頃のもの)
森の中にあり非常に広い敷地で、上方の平行にたくさん並ぶ青い屋根が病棟。病院の入り口は左の一番下のロータリー。外来診療棟は中程にあった。

本当は冨士森先生のもとでもっと勉強すべきだったのでしょうが、大学の人事と、自分一人で腕をふるってみたいという不遜な思いから、その後私は(今は統合されて跡形もなくなってしまいましたが)貝塚市にある国立療養所千石荘病院に赴任しました。
前任の矢部先生が大阪市立大学に形成外科が新たに開設されるため、そのスタッフとして赴任されることになったので、急遽決まったのでした。
そこは昔の結核療養所でしたが、関西空港に近く敷地も広大で収容力に余力があるため、航空機事故等が起こったときに被災者を運ぶ防災基幹病院として形成外科を置き、救急機能を発展させる計画がありました(その後その計画は中止になり、私の赴任を最後に形成外科もなくなってしまいます)。

当時形成外科医は私一人、皮膚科医もいないため私はその両方を兼ねて一人で皮膚科・形成外科外来と毎週の手術をこなしていました。もちろん大がかりな手術の時は外科や整形外科の先生にもお手伝いいただき、逆に手が足りないときには私が外科や整形外科の手術の手伝いに入りました。
褥瘡や悪性腫瘍摘出後の筋皮弁手術を外科の先生に手伝ってもらい、外科で行なう下肢静脈瘤の大掛かりなストリッピング手術、整形外科の膝や股関節の人工関節手術に介助で入るなど、今では自分ですることはありませんが形成外科以外のいろいろな手術も学ばせていただきました。
また、この病院は「一人当直体制」で、夜間は当番の医師が一人で全科の入院患者と、数は多くないものの救急患者の応急処置を行わねばならず、喘息や心臓疾患などの救急対応や末期癌の患者さんの看取りなど、今では自分で対応することのない分野の貴重な体験もさせてもらいました。

岸和田市民病院他

その後大学人事の都合で岸和田市民病院で週3回行われていた形成外科外来も兼任することになり、当時は岸和田市民病院にも在籍する形成外科医は私一人でしたので、国立千石荘病院に勤めたまま、非常勤医師として岸和田市民でも週3回半日の外来と週1回年間180件程度の手術をたった一人で行っていました。(もちろん兼任ですから千石荘病院の方も外来と週2回の手術は従来通りしていました。)

岸和田市民は基幹病院ですから重症な症例も多く、悪性腫瘍や熱傷などの再建は一人では荷が重かったのですが、大学から応援を頼んだのは1回だけでなんとか乗り切りました。
一番記憶に残っているのは、壊死性筋膜炎で足の皮膚が壊死した患者さんに対する皮膚移植と、超高齢者の顔面にできた悪性腫瘍の切除・同時再建を、金曜の午後半日で一度にやった日でしょうか。どちらも緊急性があるのに週1回半日しか手術室を使わせてもらえなかったため、無理を承知でどちらも予定手術時間1時間半と書き(実際には合わせて7時間かかりました、介助についてもらった看護師さんごめんなさい)、当日麻酔医が不在だったため1例目は自分で腰椎麻酔をかけてまず移植用の皮膚を採取し、ドナー部分を縫い縮めてから患部を切り取り、移植して足にはギプスを巻き、終わったらすぐに2例目の麻酔をかけ、と今思い返してもよく一人であんなことができたものだと思う一日(半日?)でした。
そのほかにも外科の手術に呼ばれていったら腹壁にぽっかりと大きな丸い穴が空いていて、切除したが塞げないのであとは形成外科でお願いしますと言われたり、内科の患者さんの両足の皮膚の色が悪いというので病室に見に行くと左右とも膝から下が壊死していたり、いま思い返すと結構怖い思いをたくさんしました。

習ったこともなく見るのも初めて、という状況を、誰に頼ることもできずなんとか一人で乗り切った経験はその後の自信になりましたが、自分の未熟さを痛感する日々でもありました。

和歌山スミヤ整形外科病院

そのころ、岸和田・貝塚から近いということもあり、和歌山市のスミヤ整形外科病院に週1回土曜日にレーザー外来をしにいっていました。レーザーは冨士森形成にいたときに初めて本格的に使い始め、その後京都の城北病院で形成外科を立ち上げた現・鈴木形成外科の鈴木晴恵先生のところにお手伝いにいったこともあり、そのご縁で鈴木先生から紹介されてスミヤ病院に行くことになったのでした。従って、私のレーザー歴も30年以上になります。

ここまで読んでくださった方には想像がつくと思いますが、当時の私のスケジュールはかなりハードでした。月水金は岸和田市民病院の形成外科外来、火曜日は千石荘病院で皮膚科と形成外科の外来、水曜午前と木曜日1日は千石荘病院で手術、金曜の午後は岸和田で手術、土曜日は和歌山のスミヤ病院でレーザー外来、もちろん岸和田にも千石荘にも病棟があって入院患者がいます。当直もあります(金土日連続当直なんて言う時もあった)。時間刻みで調整しタクシーで病院間を往来する日々でした。家に帰っている時間がなく、病院近くの官舎の空き部屋を借りて仮眠したりしたこともあります。

ドイツ留学時代

Marienhospital Stuttgart

こうして3年がたち、揖斐の診療に追われて勉強する暇もない毎日に疲れ、一人で何もかもやるスタイルが独りよがりになってはいないかと不安を覚えだした頃、当時の西村京大教授からドイツ留学の話が出ました。大学院に行こうかとも思っていたのですが、試験勉強する時間が取れないのと、その頃少し知識があったドイツ語を現地で活かしたいとも思いました。無給という条件面では厳しい留学でしたが、教授自身も学ばれたことのあるヨーロッパ最大の形成外科のある病院ということで、当時勤務していた3つの病院を一旦すべて退職し、自宅も引き払ってドイツ移住という形で1996年4月にドイツ留学がスタートしました。

マリア病院形成外科はテュービンゲン大学の関連病院で、カトリック系の大きな救急病院です。形成外科は日本の一般的病院の形成外科とは比べものにならないくらい規模が大きく、常勤医師が18人おり、入院病床も形成外科だけで90ベッドありました。形成外科単独で毎日5つの手術室をフルに使って一日20件ほどの手術を行っていました(年間約5000件)。形成外科専任の麻酔医がおり、ヨーロッパ各地からの留学生も研修医もいました。
プロフェッサーは3人いて、一人は鼻、一人は顎と顔面骨、後の一人は乳房と手の外科、顕微鏡手術が専門でした。私はこの3人目のグロイリッヒ教授に主に乳房と手の外科、皮弁などを教えていただき、時間があればグービッシュ教授の鼻形成(トータルライノプラスティといって、骨を切り軟骨を形成して鼻の形を全く変えてしまうほどの大がかりな手術)、ヴァンゲリン教授の上下同時顎切り手術(BiMaxといってルフォー型の上顎骨切りと下顎骨の矢状分割を同時に行う1日がかりの手術)などに入らせてもらっていました。

ドイツでは、日本の逆にお乳を小さくする乳房縮小手術、鼻を小さくする骨切り手術が主流で、また乳ガンなども形成外科で切除から再建まで全部やってしまうなど、日本とはずいぶん環境が違い驚きましたが、中でも、美容と形成の区切りがあまりなく、同じ手術室で豊胸と乳ガンの手術、鼻の美容形成と事故でつぶれた鼻の再建などが特に区別なく行われていたのが印象的でした。特に乳房縮小は非常に症例数が多く、年間300例以上にも及びました。ほぼ毎日1〜2例やっている計算で、これだけ多いと最初は見学するだけだった研修医が半年ほどでたちまち熟練した執刀医になってしまいます。こうした教育体制は羨ましいと思いました。

スタッフも非常に充実していて、医者は事務仕事や書類書きをする必要がなく、書類作成やカルテの記入は全て秘書に任せてサインするだけでした。日本への報告書や論文作りなどに備えて日本からPCを2台持って行ったのですが、医局の机に置かせてもらう許可をもらいにいくと、「医者がコンピュータを自分で使うのか?書類作りなどの仕事は秘書にやらせて、その時間を医者しかできないことに使え。医者は高い時給をもらっているのだから、事務スタッフでもできる仕事は事務にさせないと給料に見合う仕事ができないだろう」と言われました。実際、秘書さんたちも非常に有能で、教授が患者さんを診察し終わると別室で音声を拾っていた秘書さんから診察内容をまとめたカルテが回ってきて教授はサインするだけ、手術が終わると執刀医がマイクに手術の要約を口述し、次の手術に備えて手を洗っている間に手術記録が印刷されてくるような感じでした。
教授の計らいで、オーストリアやベルギーなどで開かれるクローズドの学会(通常は各大学の教授と特別招待者しか入れない格式の高い国際学会)に連れて行っていただき、非常に質の高い選りすぐった数少ない発表をゆっくりと聞き、古城ホテルや会員制のリゾートなどで行われるブラックタイのフォーマルなレセプションで、ヨーロッパ各国の一流のプロフェッサーたちにお目にかかることができたのも得難い経験でした。医局の親睦旅行に参加してローマ時代の遺跡を見学に行ったり、ポーランドやフランスからの留学生たちと1台の車に分譲してフランス国境までドライブしたりもしました。

帰国してレーザーを学びなおす

大城クリニック・銀座四丁目大城クリニック

日本に帰りたくないほど環境は良かったのですが、何せ無給でしたので生活費も尽き、帰国することになりました。ドイツ語の資格があったのでドイツの医師免許は取れていたのですが、今と違ってアジア人の移民受け入れに厳しく労働ビザがなかなか取れなかったので、紹介してもらった受け入れ先の大学病院でも給与を伴う労働契約が結べなかったのです。
帰国後の勤務先は、当時の埼玉医大形成外科・原科教授のご紹介で、教授の慶応大学時代の同級生である大城先生のところに決まりました。大城敏夫先生は日本で初めてレーザー治療を行った先生で、レーザー医学会・レーザー治療学会などを立ち上げた日本のレーザー医療の先駆者ですから、ドイツでしばらくレーザー治療と離れていた私としては願ってもない就職先でした。

大城クリニックには結局1年間だけしかお世話になりませんでしたが、その間日本で始まったばかりのレーザー脱毛に携わり「医療脱毛」という用語を確立したレーザー学会・レーザー治療学会合同の公開討論会にもスタッフ(肩書は事務局長)として参加させていただきました。その他の各種レーザー治療はもちろん、先生が美容専門クリニックとして立ち上げた銀座四丁目大城クリニックでは副院長として勤務しながらさまざまな美容のテクニックも教えていただき、その経験はその後の私の美容医療の原点といっても良いくらいで、大変感謝しています。

京都時代

京都桂病院、城北病院

翌年、大城クリニックを退職後、埼玉の総合病院で形成外科の立ち上げをする予定でしたが、京大研修医の際にも、更には兵庫県立尼崎病院の研修医時代にもお世話になった寺島先生に誘われ、京都桂病院で半年間、先生のご指導をみたび仰ぐことになりました。ご存じの方も多いでしょうが、寺島先生の手術の腕は驚嘆すべきもので、一緒にお仕事できて本当に幸せでした。後半3ヶ月は寺島先生がご事情で休職されたため、先生の代わりに一人でがんばり、ドイツ時代の研修の成果を確認することもできました。

2000年4月より、冨士森良輔先生のご紹介で鈴木晴恵先生の後を受けて城北病院形成外科に勤務することになり、その後開業準備のため退職するまで約6年間、美容と一般形成外科を掛け持ちする形で診察、手術、レーザー治療、ケミカルピーリングなどの診療を行っていました。美容ではニキビの患者さんが非常に多く、その間一般市民対象のスキンケアに関する講演会なども開きましたが、開業後は、ニキビ治療をはじめ専門的な皮膚科診療は皮膚科専門医である副院長の小川基美先生にお任せすることにしました。
形成外科では、当時寺島先生がなさっていた診療を受け継ぐ形で、瞼の形成を多く手がけ、京都専売病院(後の東山武田病院・現在は閉院)眼科にも月1回出張して眼瞼下垂の手術を数例ずつ行っていました。城北病院でもまぶた外来を開設し、近隣の眼科の先生から紹介を受けて眼瞼下垂や内反症の手術を行いました。KBSラジオなどで瞼の手術や美容皮膚科などについてお話しさせていただいたこともありました。
また、以前と変わらず冨士森形成外科の入院手術が城北病院で毎週行われていたため、空き時間を見つけて手術に入らせていただいたり、術前術後管理等を受け持ち、再び冨士森先生のお教えを受けることとなりました。

城北病院美容外科・皮膚科からはこの間、鈴木晴恵先生(鈴木形成外科)、榎堀みき子先生(みずき皮膚科クリニック)、山本可菜子先生(山本可菜子皮膚科クリニック)、岩城佳津美先生(いわきクリニック)、鈴木京子先生(すずきかもがわクリニック)、藤井啓子先生(前・西梅田皮膚科)ら、多くの先生が巣立って行かれました。美容医療に関する考え方や経験はそれぞれ異なりますが、それぞれの先生ががんばっておられるのを耳にするにつけ、私も形成外科・美容外科の分野で患者さんの健康と幸福に寄与することができればと思い、日夜診療に励んでおります。