父が外科の開業医だったこともあり、小さな頃から父以外の「お医者さん」にかかったことが一度もなかったので、私にとって医者のイメージイコール父でした。
おそらく幼い頃から洗脳されていたらしく、父は口では将来は好きなものになればいいと言いましたが、医学部受験以外は許されない雰囲気で、どうもこれは後を継がされるに違いないと思っていました。
父の仕事ぶりは尊敬していましたが、言われるまま後を継ぐのは嫌でした。さりとて、小さい頃宇宙飛行士にあこがれた以外、私には取り立ててなりたいものがありませんでした。
美術部や合唱部に入っていたので芸術や音楽に興味はありましたが、特に才能に恵まれていたわけでもなく美術の先生にも音楽の先生にも「プロになるのは無理」と早くから宣告されていました。叔父が建築家だったので、建築をやろうかなあと思ったり、法律の勉強をして弁護士になろうかと思ったりもしましたが、特にこれがやりたいと思うものはありませんでした。就職して会社員になるというイメージも湧きませんでした。
結局父の母校や地元の大学の医学部を両親や高校の先生に言われるまま受験したのですが、合格したいというより浪人して東京の予備校に入って東京で一人暮らしがしたいという思いの方が強いくらいで、たいした受験勉強もしなかったので当然不合格になりました。
浪人して東京の駿台高等予備校(当時)に入ったのですが、高校時代ほとんど受験勉強らしいこともしなかった私は当然最低に近い劣等生でした。受験戦争の激しい時代でしたから私の所属したコースには1400人ほどの受験生がいて大半は東大理Ⅲや京大医学部を目指してまじめに勉強していましたが、落ちこぼれの私は、午前中は一応真面目に授業を受けたものの、午後にはなぜか仲良くなった自称「不良浪人仲間」と遊んで暮らすようになりました。授業が終わると三々五々集まって近くの大学の学生食堂でご飯を食べたり、学生街の喫茶店などにたむろして何時間も雑談をして過ごしました。
そういう連中の中に、理学部や哲学科を卒業してから医学部再受験を目指す東大生や真面目に受験勉強しないのでとんでもなく頭がいいのになぜか試験に落ちた田舎の公立校出の天才少年みたいなのが数人いて、私は彼らと受験勉強そっちのけで哲学や物理学、芸術論や国際関係論などを話し合うのが日課のようになりました。結構専門的で高度な話題も多く、話題に食いついてうまくいけばいわゆる「マウントを取る」ためにはこちらも色々と彼らに勝てる専門知識を仕入れないといけないので、予備校の近くの丸善(書店)で、受験とは関係のない有機高分子化学とか超準解析とか古典文学体系とか、現代音楽の記譜法、心理カウンセリングの理論といった、本来は大学の専門課程で参考書に使うような「カッコよさそうな」専門書を漁って、一部でも理解できそうなところを読んで知識を仕込みました。岩波の数学辞典や西洋哲学史などは彼らと議論する上での必須アイテムでした。すると不思議なもので、取り立てて受験勉強しているわけでもないのに、模擬試験を受けるたびに成績はどんどん上がって行くのです。例えば有機化学の本をなんとか理解しようと必死で勉強した後は、受験の化学の問題は簡単すぎて毎回満点を取れたりするわけです。古典文学の研究書を読んでいると、国語の入試問題はわけなく解けて、国語の模試の成績が全国一になったこともありました。こうして、総合成績もなんとか東大合格圏ぐらいには入ってきました。小手先の受験技術でなく基礎的な思考レベルが彼らに引っ張られて上がったんだと思います。とうとう東大理Ⅲを受けようかなと言っても周りに笑われないくらいにはなりました。
最終的には迷った末東大ではなく京大医学部を受験することになったのですが、私が今こうやって医者をやっているのも、みんな当時の超優秀な「不良浪人仲間」のおかげです。(彼らの中にはその後有名大学の教授になったものも多く、旧帝大の医学部教授になった友人も三人ほどいます。いい仲間に巡り会えたものです。予備校の本来の授業を通じては講師として教えに来ていた有名大学の名物教授など生涯の師とお呼びしたい偉大な先生方にもたくさん出会えましたし、予備校時代は最高に楽しい日々でした。)
かくして京大医学部に入ったものの、卒業したら田舎に帰る、というのが嫌でのらくら過ごし、大学時代はずっと好きなコーラスに耽り友人たちとの飲み会で明け暮れました。(全国大会で毎回金賞を取るような団体に複数所属していたので毎日練習があり、それこそ練習に忙しくて授業に出る暇もなかった。)ちょっとした病気がきっかけで実習にもあまり出なくなって卒業も危ぶまれる成績でしたが、さりとて他になりたいものはなし、就職活動もする気はなかったので結局最終的には追試を受けまくってなんとか卒業し国家試験も受けました。なろうと思ったわけでも、なりたいと思ったわけでもなく、なんとなく流れで、とりあえず医者になってしまったのです。
そうは言っても医師国家試験に合格した以上、人の命を預かる医師になるわけなので、流石に医者は真面目にやろうと思いました。何科の医者になろうかと思ったとき、私が興味を持ったのは「脳外科」「形成外科」「精神科」の3つでした。父の有形無形の影響で医者イコール外科医という感覚があり、内科系に進む気は全くありませんでした。ただどうせ医者になるなら「ひとの心」に関わり、心を癒す医者になりたいと思うところもあって、精神科には興味がありました。
父はもともと脳外科医だったので、脳の構造を勉強するのが好きで家でも暇があればそうした本を読んでいました。最初は私も父のように脳外科に進もうかと迷いましたが、人の心との関わりでいえば、脳はハードウェア・心はソフトウェアという関係にあり、脳外科ではハードウェアの修理はできても、心と直接向き合う部分が少ないように思えました。そういえば格好いいですが、浪人しているので年齢的に「脳外科医」になれたとしても実際に働ける旬が短いし、劣等生でしたから優秀な先輩の多い脳外科ではこの先も当分執刀医にはなれないかもしれない、とも思いました。
では、精神科はどうか。当時の京都大学精神科は(今も?)他の大学とは研修体系が違い、研究よりも社会活動を重視する不思議なシステムで、他の大学とも連携していないようでした。「教授は文部省の手先だから個人的に付き合ってはいけない」などと説明会で言われ、ここではデモには行くが研究はしません、などと聞いてこれは違うなと思いました。
元々外科系に興味があり、また生来手先の器用さが自慢でもあった私としては、言葉や薬だけで治療するのでなく、自分の手で、メスを持って、直接患者さんと触れあう医者になりたいという思いも強くありました。そういうわけで精神科入局は諦めました。
結局私は当時まだあまりメジャーではなかった「形成外科医」を目指すことになりました。説明会で見た数々の衝撃的な写真(こんなにぐちゃぐちゃになった人体が、こんなに綺麗に治るのか!)も興味を掻き立てましたが、むしろ「形成外科の精神科的側面」に心惹かれました。これについては後で書きます。
本当は形成外科に進むことにしたのはもう一つ本音の理由があって、当時まだ全国的にはほとんど知られていなかった形成外科は開業には不向きであり、人口100万人以上の大都市でないと経営が成り立たないと言われていました。形成外科医になってしまえば、都会の大病院で勤務できて、田舎に帰って後を継がなくても済む。そんな不純な考えもありました。今のように、全国つづ浦々、人口数万の小都市にも何軒も形成外科が乱立するような世界は、当時想像もできないことでした。
では形成外科がなぜ「人の心」と直接関わる科なのか、私が医師になった当時は、社会的にもそうした考えはまだ広まっておらず、なかなか理解してもらえませんでした。当時、医師の間でさえも、形成外科といえば、傷をきれいに縫ったり、血管をつないで背中の皮膚を胸にくっつけたりという、職人的な技術を磨く科というイメージが強く、今では考えられないことですが、人の心と向き合う科という側面はあまり問題にされていませんでした。
形成外科入局の際の教授面接で、当時の京都大学初代形成外科教授・一色信彦先生に、君は形成外科で何がやりたいのかと尋ねられ、「患者さんの心と向き合い、メスで心を癒すための方法を見つけたい」と答えたところ、君は随分と変わったことを考えているな、といわれたことを思い出します。
形成外科は「再建外科」という考え方が主流で、損なわれた形を元に近く戻せば目的は達成され、その結果として患者さんは「当然幸福になるはずだ」と単純に思われていました。
また病気でもないのにもっと美しくなりたいという人を扱う「美容外科」は、病気を治す医学ではなくいわば邪道であり、形成外科医が踏み入ってはならない、いかがわしい分野だと思われていました。一式先生には、京都大学で美容に手を出すやつは破門だ、と真顔でいわれたものです。
しかし、人の心というものは、また形成外科と美容外科の違いというものは、そんな単純なものだろうか、と私は思いました。人の外見は、社会に出て他人と関わるための「社交用のドレス」に当たります。ドレスに穴が開いていたりシミがついていたりすれば、恥ずかしくて人前に出たくなくなるのは当たり前です。だからといって、ツギを当てればそれだけで人は満足するでしょうか。いかにきれいに修理しても、ツギあての衣装では胸を張って歩けません。ドレスには流行もあり、アクセサリーも必要です。
そもそも美容外科を訪れる人は、本当に「人より美しくなりたい」と思っているのでしょうか。本当は、他人が見れば「たいしたことはない」「人並みだ」と見える部分に、なにかしらこだわりがあり、コンプレックスがあり、これさえ「人並みに美しければ」私は幸せになれるのに、と思っているのではないでしょうか。「この程度で十分」「そんなに変じゃないよ」と言って美容的な悩みに取り合わない医者は、そうした「隠れた悩み」に対する感受性が足りないのではないでしょうか。
研修医時代、医学部図書館の隅に「形成外科領域の患者の精神的問題」という英語の本を見つけ、英語が苦手な私にはなかなか辛いものがありましたが、忙しい仕事の合間に1冊全部読み通したことがありました。そこに書いてあったことは、まさに私が求めていた問いに対する解答でした。要約すれば、形成外科医は手術という手段を通じて患者の心を癒すのであり、患者の良きパートナーとなって、その人が社会の中で自分の能力を十分に発揮するお手伝いをするのだ、というようなことが書いてありました。
私はその頃、大学病院でいろいろな障害を持った患者さんたちと接して、こんなに大変な障害を持ち、人が見たらぎょっとするような外見(最近はユニークフェースというようです)に苦しみながら、明るく前向きに生きている人たちがいる一方で、たった一つのニキビ痕、指摘されなければわからないような小さな傷、ほとんど誰の目にも触れないであろう服に隠れたあざに悩み、外出もできず結婚もせず、引きこもって過ごす人たちの気持ちをどう解釈したらよいか悩んでいました。結局それは、その人の心の傷なのでした。
目に見える傷をいかに上手に治しても、心の傷に手をつけなければ、患者さんの痛みはそのまま残り、心の傷は新たな「対象」を見つけ出してそれにこだわり始めます。逆に、心の痛みが軽くなれば、以前と同じ傷も気にならなくなってくるのです。私の専門は傷痕治しですが、傷痕は目に見えるものばかりではないと言うことを肝に銘じて診療しています。
京都大学医学部卒 形成外科